【主な事業】
・地主として小作人に土地を貸し、小作料(年貢)を取っていました。
安政3.9.15(1856)ー 大正7.5.20(1918)
明治12.5.13(1879)ー 昭和14.6.15(1939)
【主な事業】
・市場に出せないじゃがいもなどを水車で粉引きし、片栗粉等を海外に輸出していました。
・大正13年 ヨコハマ焼き陶製工場 創業。
・昭和初頭 大衆浴場 大見湯を開業 。昭和14年までに上大岡周辺に6店舗構えます。
明治37.1.6(1904)ー 昭和57.7.26(1982)
大正12年9月関東大震災が発生後、大雨で自宅の裏山の崖が崩れた際、その露出した粘土が陶土に適しているのではないかと直感、試験の結果良質な陶土と判り、京都から焼物職人の清水房太郎氏を招き、大正13年に工場を設け創業したそうです。当時の雑誌「大横浜」には「北見氏の犠牲的精神と清水氏の献身的な努力により、幾多の難関を突破し大正14年に製品を市場に出す事ができた」と書かれています。 「横浜焼」と呼ばれた焼物の種類は日本趣味の手製品で花瓶、茶碗、皿や、コーヒーカップ等の輸出品を大量生産していましたが、昭和14年6月に忠蔵が他界し、その頃から国内情勢は戦争が悪化し欧米に対する輸出は難しくなり、ついに昭和16年頃には製造中止され「横浜焼」は20年程の短命で終わりました。しかし「北見製陶所」の玄関横にあった狸の焼物と同様のものが、現在笹下の東樹院境内に置かれ往時を偲ぶ事ができます。また、当家でも庭園には動物の置物、屋内には皿や器など展示しております。ご利用の際には是非ご覧ください。
「大横浜」昭和5年春特別号(横浜市中央図書館蔵)
大衆浴場「大見湯」は大正後期に大岡川村の村長も務めていた忠蔵が、関東大震災後の昭和初年頃に山から水を引き鎌倉街道沿いに開業させたそうです。おそらく上大岡で最初の銭湯だったのでしょう。昭和14年までに6店舗を構えたそうです。 忠治の代になり、終戦直後の昭和20年当時、銭湯は燃料がなく営業できずにいた様で、8才の少女だった美空ひばり(当時は美空和枝)がこの銭湯で歌ったと云うエピソードがありました。それによると終戦後、父親が復員して「美空楽団」を結成し、戦後最初に人前で美空和枝が歌ったのがこの「大見湯」だった様です。なぜ上大岡だったのかは、おそらく当時横浜の市街地は空襲により焼け野原となって銭湯も焼け、住んでいた滝頭から一番近くにあって焼け残っていた銭湯がこの「大見湯」だったのでしょう。小さな美空和枝は浴槽のフタを舞台替わりにして歌ったそうです。その盛況ぶりもあり劇場に改装されたそうです。 現在はソフトバンクショップが入るビルとなっています。
戦前人気を博していた「横浜スカーフ」の再興に伴い、昭和20年代、横浜市南区の大岡川沿いや保土ケ谷区の帷子川沿いに焼失から復興した捺染工場が多く建てられ、川の水が染料で赤や青に染まっていました。昭和30年代に入る頃にはクリスチャン・ディオールやイヴ・サン=ローランなどのブランドが横浜スカーフの品質に着目し、委託生産を行うようになります。この頃から化学繊維が登場。 これに対応した捺染技術が開発され、手ごろな価格の製品が輸出されるようになりました。 このような背景もあり、当家もこの頃「北見産業株式会社」として創業し、昭和55年頃まで主にスカーフの製造、輸出を営んでいました。その後、菌床栽培の舞茸工場を経て現在は駐車場となっています。当家に当時の木型版やスカーフを展示しております。
1960年代後半~70年代前半頃、日本ではボウリングが大流行しました。そんな真っ只中の昭和47年(1972)12月「赤い風船ビル」竣工。36レーンからなるボーリング場はイベントスペースとしても活用され、上大岡に新しい娯楽、コミュニケーションスペースを提案しました。その後、ボーリングだけでなく当時では珍しかった、ゲームセンターや書店、飲食店などを同敷地内に併設し、複合アミューズメントパーク化を実現し、今も「AKAFOO PARK」として地元の方に親しまれています。現在は「株式会社オーヴァル」が経営・管理しています。
昭和20年代の復興期から高度経済成長期にかけて様々な店舗を営業していました。大見湯と隣接していた理髪店や果物屋等、当時の様子を上大岡の街並と共にご覧ください。